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長岡安平の紹介

《日本人初のランドスケープデザイナー 長岡安平》

 長岡安平は天保13年(1842年)7月5日、肥前大村藩彼杵村(現在の長崎県東彼杵町)に藩士の五男として生まれました。大村藩は明治維新の時は謹皇派で、政府の要職に就く者が多くいました。その中に、東京府知事、衆議院議長を務めた政治家の楠本正隆がいます。長岡は楠本に従って上京し、明治11年に東京府の土木掛に命じられ、最初の仕事は皇居お濠端の植樹でした。
 飛鳥山公園や坂本公園の設計をはじめ、東京の大小ほとんどの公園整備に携わり、さらに街路樹苗木の育成、史跡名勝天然記念物の保存にも尽力しました。
 また、在職中だけではなく定年で退職した後も、精力的に各地に赴き、各地の公園や庭園の設計を行いました。84歳で亡くなる数時間前まで現場に立っていたそうです。

長岡安平肖像写真

長栢園跡碑(芝公園18号地)

 芝公園内には府知事官舎をはじめとした多くの建物があり、長岡は楠本正隆の執事として、東京府に入る前から知事官舎脇に居を構えていました。これは、彼の現住所(東京市芝公園18号地5番)が記載された申請書が公文書として残っていることからも明らかです。彼はこの自宅に「長栢園」の名を冠していました。
 昭和2年12月20日翁の2周年忌を期して、知友一同が跡地に建立したのが、こちらの碑です。

長栢園跡と刻まれた石

《長岡安平と芝丸山古墳》

鳥居を中心に広がる古墳の景色

 長岡安平は、あらたに芝公園内に施設をつくりだすばかりではなく、園内の史跡保全にも尽力しました。古墳の性質に関する考証と保存に関する意見を東京府知事から求められたことが発端で、明治30年(1897年)から翌年にかけて日本の考古学の先駆者である坪井正五郎により芝丸山古墳群の調査を行い、丸山と呼ばれる丘が前方後円墳であることが確定した。丸山が古墳であることが判明した後、長岡はこれを東京府に保存するよう働きかけました。
 現在、東京都指定史跡「芝丸山古墳」は公園として整備され、誰でも気軽に利用できる憩いの場として親しまれています。

《長岡安平が作成した設計図》

クリックで拡大画像が表示されます。

※設計図等は公益財団法人東京都公園協会みどりの図書館東京グリーンアーカイブス所蔵

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