昭和42年10月、東京オリンピック選手村跡地に代々木公園が誕生しました(全園開園は昭和46年4月)。
園内は約1/3が樹木に覆われており、お隣、明治神宮の森と合わせて東京ドーム約27個分に匹敵する森がそこにあります。
東京の森づくりに励もうと、代々木公園はその第一歩として生まれました。
当時、モータリゼーションにより都市の公害問題が世論の高まりをみせていた時代。人々は自然環境の保全や公園緑地の確保に関心を向けていました。
そんな時代に東京で初めて「森林公園」と銘うったことに、当時の社会情勢の動向をみる気がします。
代々木の名前の由来はお隣・明治神宮の東門付近にあった樅の木の大木から「代々の木」となったとされています。
江戸後期、代々木公園のあたりは、井伊直弼の下屋敷(明治神宮の前身)をはじめ、いくつかの大名の下屋敷がありました。しかしお屋敷の周辺はほとんどが百姓地で、田畑が広がる風景だったそうです。今の景色からは想像もできません。
その後、陸軍代々木練兵場となり、戦後は米軍の駐留軍家族の居留地・ワシントンハイツとなりました。その後は、みなさん良くご存知の東京オリンピックの選手村となり、跡地が現在の代々木公園となっています。
また、明治43年に我が国で初めて日本人が乗った飛行機が飛んだ記念すべき場所でもあります。園内にはそのときを記念した日本航空発始の碑や、オリンピック関連の碑が残されています。
現在の代々木公園
代々木公園の計画は懸賞公募で決められました。
公募の内容には条件がつけられ、明治神宮の森と連動するような樹林(樹種)を構成することや、公園内は自動車が通行しないようにする、など、今の公園の計画では当たり前に考えられそうなことですが、当時の世情を反映している条件だったと思われます。
左・コンペ入選作品(作品計画者・池原謙一郎氏) 右・コンペを受けた後の実施計画
「都市公園」51号より
代々木といえば若者の文化発信の地として歩行者天国があげられるでしょう。
昭和45年頃、新宿などで始まった歩行者天国が代々木公園の真ん中を通る道路(放射23号線)ではじまったのは昭和55年のこと。「原宿ホコ天」の名前で若者文化の強力な情報発信基地となりました。
一世を風靡した竹の子族もロックンローラー族、ホコ天バンドと時代と共にスタイルが変わりましたが、代々木公園と歩行者天国の空間は巨大な野外劇場空間といった雰囲気でした。
フリーマーケットの賑わい(昭和後半)「都市公園」18号より
その後、さまざまな問題から歩行者天国はなくなりましたが、時代の社会問題と密接にかかわりながら対応を余儀なくされてきた代々木公園は、今ではようやく当初の平穏な時代に回帰しつつあるといっても良いのではないでしょうか。
1917年の園内
2007年同じ場所から撮影約30年経て、木々が大きく育っています
代々木公園は森林公園として整備されました。公園としての森と神社としての森の違いはありますが、代々木公園も明治神宮の森も人の手によって造られた森であることを忘れてはなりません。
明治神宮は自然林の遷移の段階で、裸地から森をつくるのではなく、森ができる途中に現れる樹種を混ぜて植え、今では見事な照葉樹林をつくりあげています。明治神宮の森は造園学の創始者といわれる上原敬二先生や、日比谷公園の首かけイチョウで知られる本多静六先生が計画・設計に携わりました。
人を寄せつけない厳しさを持つ荘厳な森、または人を暖かく迎えるやさしさを兼ね備えた森づくりを理想としたのかもしれません。
この木はもともと明治34年頃、日比谷交差点付近にありました。日比谷通りの拡張に伴い、伐採されるところだったこの木を林学博士・本多静六先生が「私のクビをかけてでも成功させる」と難しい移植を25日間かけて成功させた推定樹齢300年の日比谷公園の中心にあるシンボル的な大木。
関東地方を例にすると、一次遷移で森づくりをスタートさせた場合、500~700年を経ないと明治神宮の森のような姿にはならないと言われています。森づくりを始めた当時、明治神宮の森は、完成年数を約100年に設定したそうです。ところが、東京農業大学の上原敬二先生は、生前、竣工後約70~75年の時点で100年の森の様相ができあがったといっていました。
この明治神宮の森は、構想段階当初からすでに現在のような森の姿になっていたわけではありません。森づくりにあたり、大阪府にある仁徳御陵の森を見本にしたといわれています。
明治神宮の森をつくるにあたり、当時の技師であった上原先生が、全国の官幣大社など80社近くを調査しながら神社の森の形態を把握しました。同時に、森を構成している樹木の姿、あるいはその理想的な森の姿について仁徳御陵に学んだといわれています。
出典:緑化技術の新時代-緑の知恵と技術による都市と国土の再生-
第6講 明治神宮の森に学ぶ都市の森づくり より抜粋
(東京農業大学地域環境科学部教授 濱野周泰氏)