村雨辰剛 × 木村央 庭師対談

庭師と俳優の二刀流でご活躍されている村雨辰剛(むらさめたつまさ)さんと小石川後楽園の技能職員 木村央(きむらあきら)の対談が実現。
日本庭園の魅力や庭師を目指したきっかけ、お庭の手入れに対する想い等ぜひご覧ください!

好きな日本庭園とその魅力について

村雨:僕が修行した場所は愛知県三河地方の西尾であり、そこの近くにあった吉良上野介の菩提寺である華蔵寺が好きであり、修業時代に癒されに行っていました。
その華蔵寺の庭がとても好きです。
面積はすごく小さいですが、観賞式の枯山水庭園。山の斜面を活かしてシンプルに石組みとサツキの刈込みだけで表現されている庭でした。
斜面の下には池があり、亀島がありました。
縁側に座って眺めていると時間も忘れるくらい癒されました。
斜面上のクスノキの大木が覆い被さってくるようで、遮断された異世界のような空間であり、凄く落ち着く空間でした。
池の中の砂利も時間経過とともに杉苔で覆われており古さを感じられて良いです。
いつもインタビュー等で聞かれると、このお庭を答えます。

木村:私が一番好きなのはここ(小石川後楽園)なんですけど、やはり自分が手入れをしている場所なので一番好きじゃないと人に勧められないので。
他の場所となると鎌倉の建長寺にあるお庭です。
そこの改修を行った造園屋さんが解説してくれたのですが、私は当時、何も知らずに”コニファーの庭や洋庭園をやってみたい”と言ったんですよね。
そこの庭は芝にマツが何本か植えてあるだけであり、造園屋さんに”これコニファーの庭だろ”って言われたんですよね。
その時に自分の中で凝り固まった考えを解いてくれたのでそこ(建長寺)が好きなんですよね。
そこが好きというよりその人が好きなのかもしれないですけど(笑)。
(庭師の道に入って)10~20年くらい経っていたかな、(考えが)凝り固まっていて自分で型にはめていたんですよね。
だから、日本庭園の可能性を広げてくれた庭でした。

村雨辰剛、木村央対談の様子

村雨さんは新しいお庭を造る機会もあると思いますが、我々は維持管理をしていく、手入れをしながら保存をしていくということを行っております。
お庭の手入れで心掛けていることや大切にしているところをお聞かせください。

村雨:僕は庭を造ることも手入れすることも同じことだと思っていて、もちろん違いはいっぱいあると思いますが。
全ての樹は生き物であり可能性を持っています。
”樹形を整えた”というのは完成形ではなくて、樹を常に見て可能性をどんどん見つけて樹形を作っていくものだと思うんです。
だから手入れするたびに樹の価値をどうしたら上げられるか、可能性をどう引き伸ばしてあげられるかを大切にしています。

木村:駅伝ではないですけど、第一走者ではないというだけで襷を渡されているということが維持管理で、それを自分で終わらせないように次の人に受け渡していくというのが役目だと思っています。
また、我々が管理しているお庭は”古典”(Classic)なんですよね。
だから演りながら伝えていくということも大切に思っております。

村雨:古い庭だったりすると”自分で何かを変えたい、爪痕を残したい”という欲を極力抑えて(庭を)守っていかないといけないこともありますし、そこが第一優先ではありますよね。

庭園の維持管理を行う上で好きな手入れ、苦手な手入れはありますか。

村雨:僕はなんといってもクロマツの手入れが好きですね。
修行していたころは1~2年ハサミを持たせて貰えなったし、持たせて貰えてからも2年くらいはマツの手入れだけはやらせて貰えなかったんですよね。だからマツを触らせてもらえることは憧れでした。
勝手に思っているだけですがマツの樹格が一番位が高くて、庭木の王様だと思っているから常に憧れがありました。
苦手なものは…なんですかね(笑)。
結構いろいろやりましたが、時間だけが勝負の刈込作業ですかね(笑)。
慎重に丁寧に行う場合もありますが、トリマーでバーッとやる場合もありましたので。

木村:私は全部好きで全部苦手ですね(笑)。
村雨さんはクロマツという主役の手入れとおっしゃってましたが、私は主役を引き立たせる脇役的な低木のドウダンツツジやアセビの手入れが好きですね。
脇役を大きくさせてしまった過去の償いもありますが(笑)。

村雨:確かに脇役あっての主役ですからね。

木村:私はある程度出来上がっている庭園で仕事をしているのもあるかもしれないですけどね。

日本には徒弟制度がありますが、弟子の時代に学んだり気づいたことによりルーティーンにしていることはありますか。

村雨:おそらく皆さん共通だと思いますが、まず教えられることはないです。
いろいろ働いて自分で気づいていくという感じです。
失敗したり怒られたりしながら学んでいきます。
僕は元々おおざっぱな性格だったので、それが最初の頃は仕事に表れていました。
でも親方は丁寧で常に向上心を持っていて”上には上がいるぞ”とよく言われていました。
自分の中で「一つの作業が終わったな」と思っても、もう一回見直して改善できないかと自分で見直すようになりました。
また、仕事は必ず、”まずは安全に、次に綺麗に、最後に速く”この順番で教わりました。

木村:私もあまり教わったことはないです。
怒られたり指摘されたことはありますが。
ただ、私が親方に感謝しているのは時間と道具をちゃんと分け与えてくれたこと、丁寧な仕事をやらせてもらえる環境を作ってくれたことを感謝しています。
私が子どもの頃は凄く子どもが多いときで教材も人数分無く、とにかく早く終わらせろといった環境でした。
しかし、この仕事を始めたとき親方衆に時間と道具をしっかり分け与えてくれたということです。

村雨:”安全で綺麗に速く”というのは自分のペースでこの順番でちゃんと技術を身につけられる環境を与えてくれた親方には感謝しています。
会社によっては早さ勝負なところもありますが、自分が納得するまでやらせてくれ、成長できる環境を与えたくれたことに感謝しています。

村雨辰剛、木村央対談の様子

庭の手入れの基本は掃除ですが、こだわりの掃除の仕方はありますか。

木村:掃除に限らずですが”際(きわ)”の処理を大切にしています。
”掃除が大事”と言われても若い時は掃除がそんなに大事には思えなかったんですよ(笑)。
自分の手入れができるようになってそれを綺麗に見せるために掃除が凄く大事だということに気づいてから掃除をしっかりやるようになりました(笑)。
そこで”際”の処理を綺麗にすると、そのものの格が上がるというのを覚えたので”際”の処理を心がけていますね。

村雨:僕は1~2年間掃除ばかりやらされて嫌だなと思っていた時期もあったのですが、そこで効率的な掃除の仕方を覚え、最後に少し余った時間にハサミを持たせて貰え、見様見真似で(手入れなどを)やらせて貰えたので自分の成長に繋がったことに気づき、やっと少し掃除が好きになりました(笑)。
でも最初の頃は親方が処理したものをひたすら掃除しながら親方の姿を見て学んでいました。
全ての技術や精神力・忍耐力を習得するうえでもっとも大事なことだと僕は思っています。
忍耐力がないと一日マツに登って手入れをすることもできないので実はとても理にかなっているプロセスかなと僕は思っています。

思い入れのある道具は何になりますか。

村雨:修行時代からずっと持っている道具は無いですが、独立のタイミングで自分の刈込バサミを買ったものが想い出の道具です。5万円くらいしました(笑)。

木村:木バサミの音が好きでそれを大事にしていますね。あの音が良くないと自分の中で気持ちも乗らないので。
今は音のしないハサミもありますが、自分はそれでは仕事ができないだろうなと思っています。

村雨:僕もそうかもしれないです。
木バサミのカチンカチンという音が聞こえないと落ち着かないです。

木村:切ってなくても音だけさせていたいくらいですね(笑)。

村雨:厳しいところだとカチンカチンという音がしていないと”アイツ仕事していないな”と言われるというのも聞いたことがあります(笑)。

庭師という仕事の印象で5年10年と経ち、始めたころと違ってきたところはありますか。

木村:始めた頃は凄くかっこつけていたんですよ。
上辺だけで”かっこいいものを”というイメージでやっていましたが、ある程度経験を積み作業をさせて貰えるようになって外に出てみると、やっぱり自分より凄い人達がいて、10年くらいたった時には”もっと勉強しなければならない”という気持ちになりました。
どんどん勉強していくと学者さんたちがいるようなところに顔を出すようになりもっと分からなくなっていました(笑)。
それからは原点に返って自分が感覚的に良いなと思ったものを素直に受け入れるようにしています。
自分が良いなと思ったことが世間的に良いと思われていなくてもそれは”良いもの”として扱っています。
そこが変わったところかなと思います。
後輩にも”良いと思えば良いし、悪いと思えば悪い”で良いと伝えるようにしています。

村雨:僕は形から入ったので完全に憧れで”地下足袋かっこいいな”とか”衣装かっこいいな”とか。
今でも思っていますけど(笑)。
最初の頃は”日本庭園とはこうだ””庭師とはこうだ”というこだわりがあって、それ以外は全部違うと思っていました。
まずは親方の型に当てはめて、ある程度経験を積むと”これはこう。
他は違う”といったようになっていました。
でも、やっていけばやっていくほど世の中そんなに狭いものではないことに気づいて、少しずつ親方の型を基礎にしつつ、自分の世界を作っていくときにもっと柔軟性を持って、いろいろな庭師の考え方ややり方を取り入れていきたいと思うようになりましたし、そうしないと成長できないなと思うようになりました。
気楽に考えられるようになりました。

木村央

一般の方へお勧めする庭師ならではの庭園の楽しみ方はありますか。

木村:物には何にでも”気勢”というものがあります。
それは木にも石にも。
そういったものを気にして配置したり手入れしています。
石の摂理だとか見立てに注意していますので、そこに注目していただけると嬉しいです。
そこに作庭意図が込められていますので、木の勢い方向性や石の向きなども見ていただけると面白いかなと思いますね。

村雨:50年前100年前の日本人と比べると現代の人は自然との触れ合いが物凄く減っていると思うんですよね。
昔は当たり前だった風景も今は消えているし、僕的にはもう少し周りの自然と向き合って欲しいなとは思います。
人間は結局自然の生き物なので、それが無いと何か気づかないうちに失ってしまうものがあると思います。
そこに気づいて自分の生活に取り入れて貰えたらなと思います。
特に日本は季節感だったり自然はすぐそこにあったものだと思うんです。
今では人々の生活から離れてしまっているので取り戻して欲しいなと思います。

10年後20年後になっていたい将来像はありますか。

木村:私は村雨さんの年齢分この仕事をしているのですが、村雨さんを見てて”もっと頑張らなくちゃだな”と思いました(笑)。
俺の職歴でこんなに成長していないなと思いました(笑)。
まぁ、健康であることですね。
私は大病を患ったこともあるので仕事ができる喜びを最近分かるようになりました。
健康で続けられていたら良いなという思い、あと今はここ(小石川後楽園)で働いているので、この庭園が守られていればいいなと思います。
失われたり損なわれたりしないといいなと思います。
やっぱり、庭はRockと同じでLove&Peaceだと思うんですよ。
愛と平和だと思うんです。
今もお客さんとすれ違った時に皆さん笑顔ですから平和でここを愛してくれているんだなと思います。
それが10年後も20年後も保たれていれば良いなと思います。

村雨:僕は庭の世界と出会って、情熱を持ってこの世界に入ったんですが、最近は庭と全く関係ないお仕事もやらせていただいて。
凄く恵まれているなと思うんですけど、必ずしも”庭師”という肩書には拘っていないです。
僕は植物の世界というよりは日本庭園の世界が好きで、日本ならではの固有の美に情熱を感じてこの世界に入ったので、その情熱は常にもっていたいと思います。
しかし、この文化が減っていると思いましたので、この文化を守っていきたいと思いました。
”庭師”という肩書ではなくてもこの情熱を伝えられたら良いなと思っています。
この世界に出会えた宝に感謝して、一生関わっていきたいと思います。
庭師だけでなく、いろいろな視点から日本庭園の世界を見続けたいなと思います。

これで対談は終わりですが今日廻られた浜離宮恩賜庭園・六義園・小石川後楽園それぞれの印象をお教えいただけますでしょうか。

村雨:プライベートで何回も訪れたことはありますが、季節や天気ごとに毎回新しい発見があるからこそ素晴らしいと思います。
僕的には六義園と小石川後楽園は似ているかなと思いました。
この2庭園はThe回遊式庭園という感じでしたが、浜離宮はこれまでの歴史の用途がたくさん見ることができて、歴史の中の人々の暮らしを感じられました。
もちろん、六義園と小石川後楽園で異なる点もありますし、いつ来ても楽しいです。
東京にこれだけの歴史のある庭園が残されていることは凄いなと思います。

ありがとうございました。

村雨辰剛 小石川後楽園で撮影
小石川後楽園にて
村雨辰剛

村雨 辰剛 【庭師】 TATSUMASA MURASAME
1988年生まれ
趣味 筋トレ 肉体改造 盆栽

北欧スウェーデン生まれ育ち。
幼い頃から語学が得意で外国に興味を持つ。
スウェーデンとなるべく違う環境と文化の中で生活してみたいと言う気持ちがきっかけで、日本に興味を持ち日本語を勉強し始める。
やがて日本語の上達と共にその気持ちはいつか日本で日本人として暮らしたいと言う目標に。
高校を卒業すると、特技である語学能力を活かし日本で語学(スウェーデン語や英語)の講師として働き始める。
23歳の時にもっと日本伝統文化と関わって仕事がしたく、造園業に飛び込み見習い庭師に転身。
26歳の時に念願の目標であった帰化許可を頂き、日本国籍取得と村雨辰剛に改名。
2021年のNHK連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」では米軍将校役として出演。
NHK Eテレ「趣味の園芸」ではナビゲーターとしてレギュラー出演中。
著書『村雨辰剛と申します。』(新潮社)発売中!
(参照引用:株式会社ワイエムエヌ 公式ホームページ)