上野恩賜公園は明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定されました。
ここは江戸時代、東叡山寛永寺の境内地でした。それが明治維新後官有地となり、大正13年、宮内省を経て東京市に下賜されました。当初は寛永寺社殿と霊廟、東照宮それに境内のサクラを中心にした公園でしたが、その後、博物館や動物園、美術館などが建てられ、文化の香り高い公園へと衣替しました。現在、上野恩賜公園再生計画が実施されており、大規模なリニューアルが進められています。
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上野動物園は、1882(明治15)年に農商務省所管の博物館付属施設として開園し、今年で130周年を迎えた日本で最初の動物園です。日本を代表する動物園としても機能しており、1972(昭和47)年には、日中国交回復を記念しジャイアントパンダが来園し、大変なにぎわいを見せました。上野動物園は、多くの動物において繁殖に成功しており、その長い年月で培ってきた飼育技術を活かして、様々な動物の魅力的な展示に取り組み、また多くの方々に楽しんでいただきながら、野生生物保全の重要性を伝えています。
開園時間:9:30?17:30(入園は16:00まで)
休園日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、12/29?1/1
上野恩賜公園の大噴水のある竹の台広場の前に、新しいカフェとレストランが平成24年4月にオープンしました。両店舗とも広々としたウッドデッキがあり、公園の緑のなかでリラックスできるスペースです。動物園や美術館めぐりの途中にもどうぞ。
水と緑のやすらぎを感じながらゆっくりと自分らしく自由に過ごすことができる、質の高いサービスを提供します。
営業時間:8:00?21:00
“野菜の持ち味や旨みを最大限に活かす”をコンセプトに、季節ごとに厳選した旬の野菜を使用したサンドイッチやパスタなどの幅広いフードメニューをご提供するカフェレストランです。
営業時間:10:00?20:00
JR上野駅公園口から園内を進んでいくとすぐ右手にある休憩所です。飲食もでき、パンダオムライスがお子様に大人気です。ゆっくり喫茶としてもご利用いただけます。
飲み物やお菓子、お弁当、東京・上野土産に最適なグッズもそろったショップです。つぶつぶアイスが人気です。
春はサクラ、夏はハスが楽しめる池です。池の中央にある弁天堂は谷中七福神の一つ。冬にはカモなどの水鳥も多く飛来します。
弁天堂のそばからボートに乗れます。
営業時間:9:00?17:00
ローボート:1時間600円
スワンボート:30分700円
寛永寺を創建した天海僧正が建立。創建当時のお堂は戦災で消失し、現在の堂は昭和33年(1958)に再建したもの。
度々の地震や火災で破壊され、第二次世界大戦では金属供出令により胴体を国へ供出。面部のみが寛永寺に遺った。
寛永4年(1627)藤堂高虎が造営。その後、徳川家光公が造替。当時の建築技術が結集した見応えのある荘厳な造り。
寛永6(1629年)年に水戸藩初代藩主徳川頼房が築庭し、2代藩主光圀の代に完成した庭園です。池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」で日本各地と中国の景勝を模した海・河・山・田園などの景観が巧みに表現されています。
文化財保護法により特別史跡及び特別名勝に指定されており、二重指定を受けている庭園は、東京では浜離宮恩賜庭園と合わせて2庭園だけです。
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水面に映る形が満月のように見えることからつけられた名称。明の儒学者、朱舜水による設計といわれて、得仁堂とともに当時の姿を留める貴重な建造物です。
光圀18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷(はくい)叔斉(しゅくせい)の木像を安置した堂です。
11月中旬の紅葉は朱塗りの橋をひきたてます。
光圀は号を「梅里」と称するほど梅を好みました。2月上旬には紅梅、白梅など20種類ほどの梅が咲きます。
6月上旬から約1000m2に660株の花が一面に咲き、田園風景をひきたてます。
光圀は号を「梅里」と称するほど梅を好みました。2月上旬には紅梅、白梅など20種類ほどの梅が咲きます。
樹齢推定約60年。
3月下旬には見事な花を咲かせます。
旧岩崎邸庭園は、1896年(明治29年)に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられました。英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたものです。木造2階建・地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で近代日本を代表する木造建築です。館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、当時のままの雰囲気を漂わせています。
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ジョサイア・コンドルの設計により、明治29(1896)年に完成した。完成当時の岩崎邸は、15,000坪の敷地に20棟以上の建物があった。現存する3棟のうちの1棟が、木造2階建・地下室付きの洋館で、本格的な洋風建築。明治期の上層階級の邸宅を代表する西洋木造建築である。17世紀の英国ジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラム風のモティーフなどが採り入れられている。洋館南側は列柱の並ぶベランダで、1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の装飾が特徴的である。米国・ペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージも採り入れられた。併置された和館との巧みなバランスは、世界の住宅史においても希有の建築とされている。
建築自体は、主に年1回の岩崎家の集まりや外国人や賓客を招いてのパーティーなどに使用された。1階部分に玄関・食堂・厨房・書斎・客室、2階に客室・集会場、地下には倉庫・機械室・通路が設けられていた。
昭和27(1952)年に国有財産。戦後、GHQに接収され、返還後、最高裁判所司法研修所などとして使用(?1970)された。
コンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は、洋館から少し離れた位置に別棟として建つ。ジャコビアン様式の洋館とは異なり、当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りとなっている。全体は木造建築で、校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、木造ゴシックの流れを組むデザインである。洋館から地下道でつながっている。
江戸期に越後高田藩・榊原氏、及び明治初期は旧舞鶴藩・牧野氏などの屋敷であった岩崎邸の庭は、大名庭園の形式を一部踏襲していた本邸建築時に広大な庭に芝を張り、庭石・灯籠・築山が設けられた。建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残している。往時をしのぶ庭の様子は、江戸時代の石碑、広間前の手水鉢や庭石、モッコクの大木などに見ることができる。この和洋併置式の邸宅形式は、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えた。
洋館と結合された和館は、書院造りを基調にしている。完成当時は建坪550坪に及び、洋館を遥かにしのぐ規模を誇っていた。
施工は大工棟梁として、政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた大河喜十郎と伝えられている。玄関近くに構えた書院造りの広間には、明治を代表する日本画家・橋本雅邦作といわれる障壁画が残っている。広間奥に設けられた岩崎家の居住空間は、南北に分けられ、南に主人と夫人部屋、子供部屋などが置かれた。北には使用人部屋、台所、事務方詰所、倉庫などがあった。現存する広間を中心に、巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができる。